Shining Life (素敵な人生)
和合町で素敵な人生を送っている方にインタビューし、月1回掲載します。
2024/12/10
南海地震の体験者として- 4部にお住いの末久智子(旧姓山田智子)さん。生まれは高知県。昭和21年(1944年)に起こった南海地震を小学4年生で経験されたそうだ。
12月21日午前4時19分に和歌山県潮岬沖で発生、マグニチュードは8.0。まだ布団の中にいた暗い時間。大地震のその時のことは鮮明に覚えている。兄弟で一緒に布団をかぶり、揺れがおさまるのを待った。とても長い時間に感じた。屋根が壊れて、瓦が布団に上に落ちてきた。お隣の2軒の家は全壊。兄と、父親はすぐに外に出て、近所の人と共に、お隣の人を救助した。外に出ると火の玉のようなものがあちらこちらに上がっていた。(後に、これは地震による摩擦熱だと聞いた)自分たちは、庭に、筵を敷き、毛布にくるまって朝を迎えた。体はずっと揺れている感覚だった。その時上がってきた太陽は、異様に真っ赤で大きかったことを覚えている。
四国、九州の太平洋岸には津波が襲来した。
末久さんのお宅では床下にまで水が来て、畳を上げ、床板を外した。津波は去っても、この地区は地盤が50センチ以上沈下したことで海の満潮の時間になると一日2回床板のすれすれまで水が来た。ひと月程たって、排水の機械が使えるようになったことで、ようやく水が引いた。このひと月の間に学校が再開したが、学校まで田舟に乗せてもらって登校したことを覚えている。あの頃、ガス、水道はまだなく、井戸水。どうやって母が食事を作り、子どもたちに食べさせていたのかは、わからないが、お腹がすいていたという記憶はない。みんな必死で、自分達の生活をしていた。
結婚後、静岡県に住むようになり、昭和51年に東海地震説が発表され、様々な情報が出されるようになった。「地震が起こったら、まずガスを消しましょう」というのを聞いて、これは地震を経験したことのない人が作った標語だなと思った。
また、各種の防災訓練が、現実的でないと感じ、実際の地震が起こったら、こんなことしてられないのにといつも思っていた。
自分のことは自分で守ろう。それが防災の基本だと。
現在では、備蓄用の水、非常用の食料、自主防災隊、防災倉庫、最近では防災庁までできそうな勢い。私が思うのは、やはり自助が一番大切。自分のことは自分で守る。自分できる備えは自分でしておく。日頃から、いつもそのような考えでいると良いと思います。
私のお爺さんは、安政の南海地震(1854年)を経験した話を私たちにしてくれました。そして、今、私は南海地震の話を皆さんにお伝えしました。必ず来るとされる南海トラフ巨大地震に向けて、皆さんの心に何らかのものが留まってくだされば幸いです。
末久さんが南海地震の被災者だという事を知り、インタビューをお願いし、掲載させていただくこととなりました。お話を伺う中で、この地震だけでなく、これまで生きてきて、たくさんの場面で、困難があったけれど、その時々で、自分で考え、自分で切り拓き、人生を送ってきたお話をお聞きすることができました。
素敵な人生。その言葉がぴったりだなと感じました。
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